MONOCHROME-モノクローム寫眞「ウラジオストクで思い浮かぶもの」中川善博作品
日本とウラジオストクを情報でつなぐウェブメディア「ウラジオストクチャンネル」の立ち上げは2020年1月。すぐにコロナ禍になり、今年2月には戦争が始まりました。
以前のように気軽にウラジオストクを訪ねることができなくなったため、現地のみなさんからの情報や写真を頼りに、これまで配信を続けてきました。今後も無理のない範囲でそれを続けるつもりですが、今回は助っ人として、稚内在住の中川善博さんの写真を紹介したいと思います。
中川さんのプロフィールやロシアとの関係については、最後にご本人に書いていただいています。今回は初回ということで、これまで撮りためてきた作品の中から、2018年に訪ねたウラジオストクの写真を選んでいただきました。リンクをクリックすると、中川さんのブログで写真を解説しています。
ルガボエ広場:ウラジオストクの路面電車(2018.05.05)
蒸気機関車 <Еа3306>:早朝のウラジオストク駅にて… (2018.04.15)
地下通路:スヴェトランスカヤ通とオケアンスキー通との交差点(2018.05.06)
「ソ連時代末期」と言うと酷く古い感じがしてしまう。何時の間にか、随分と以前の話だ。
1980年代後半の「ペレストロイカ」(改革)や「グラスノスチ」(情報公開)というような言葉が飛び交っていた頃、ソ連のポピュラーミュージックやロック系のバンドが日本に紹介され、「ペレストロック」という「ペレストロイカ+ロック」という妙な用語まで登場した。
そんな「ペレストロック」という造語が飛び交った時代に、ロシア語やソ連の歴史を学ぶ学生という時代を過ごした。
やがて「ソ連政府奨学金留学生」としてモスクワに学ぶ機会を掴んだのだが、ロシアの用語で「国家非常事態委員会事件」と呼ばれるクーデタと、ソ連が旗を下ろして行く経過の混乱でその機会が失われたかに見えた。
しかし、1993年になってロシアに迎えられることになった。言わば「最後の“ソ連政府奨学金留学生”」としてモスクワで学ぶことになった。
御厄介になった大学は新宿区内に在ったが、帰国後は東京を離れ、日ロ両国の善隣関係の深化を志し、北海道の稚内で活動することと決した。
そんな頃に「馴染んだ近所の記録を」と思い立って写真を撮り始め、爾来写真が殆ど唯一にして最大の趣味となった。
1990年代には専らフィルムのカメラで写真を撮ったが、2000年代に入ってからはデジタルカメラを多用するようになり、最早フィルムのカメラは使わなくなって久しい。
普段、住んでいる稚内でも写真は撮る。が、他所へ行くとなると「出掛けたから写真を撮ってみる」のか「写真を撮るために出掛けている」のかが解らなくなってしまう。
2017年4月から2019年3月まで、サハリンで活動する機会が在った。そこでも写真は多々撮ったのだが、ウラジオストクでもかなり写真は撮った。
サハリンから日本国内へ戻る際、「ユジノサハリンスク・新千歳」のフライトではなく、思いついて「ユジノサハリンスク・ウラジオストク・成田」という経路を利用してみたことが在った。何となく面白かったのだが、そのとき思った。「ウラジオストクは空港内をチョロチョロとしただけではないか?!」。
そこで時間を設けてウラジオストクを訪ねたが、気に入ったので通算5回も訪ねてしまった。今般、こちらで写真を掲載する機会を得た。何がそんなに気に入ったのか、順次御紹介が叶えば幸いである。
(中川善博)
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