ジャズの町ウラジオストクで元ミュージシャンが始めたバーと村上春樹の関係
ウラジオストクでは毎年11月に国際ジャズフェスティバルが行われます。今年で17回目、11日~15日まで開催していました。今年は新型コロナウイルスの影響で日本からのジャズバンドは出演しなかったようですが、地元やロシア各地のミュージシャンが集結しました。
これもまだほとんど知られていないと思いますが、ウラジオストクは港町らしく、ジャズの町なのです。
ウラジオストクに数あるジャズバーの中でいちばん有名なのは「コントラバンダ(Контрабанда)」。ライブは毎週木~土の21時からで、まだ観光客は少なく、地元のジャズファンが集うスポットです。
オーナーはウラジオストク出身の元ミュージシャン、スタニスラフ・タシキノフ(Станислав Ташкинов)さん。ところで、店名の「コントラバンダ」というロシア語は「密輸業者」を意味しています。どうして彼はそんな店名にしたのでしょうか。その驚くべき理由や、このバーを開くに至った経緯、彼が若かった頃のソ連時代に始まるウラジオストクの音楽シーンと日本の関係について話を聞きました。
―「コントラバンダ」はいつオープンしましたか?
2015年です。グム百貨店裏の再開発にともない、ロック&パンクバーとしてオープンしました。その後、2017年にいまの場所に移ってジャズバーとして営業することになりました。おかげさまで店の経営は順調です。
―ウラジオストクにはジャズバー以外にもたくさんのライブバーがありますね。
ウラジオストクが生んだ世界的バンド、ムーミー・トローリの関係者が運営する「Mumiytrollbar」、ブルースの聴ける「Lebowski Bar」、ハードロックの「Ozzy bar」、ポップ&ロックの「Cat&Clover」などが老舗といえます。ほかにもロックバーはたくさんありますよ。
―店で演奏するジャズバンドはどれくらいいますか?
開店した当初は3つくらいしかなかったのですが、もともとロックやパンクをやっていたバンドもジャズを勉強してくれて、いまでは13のジャズバンドがウラジオストクにいます。また日本や韓国など海外から演奏に来てくれる人たちもいます。
―ウラジオストクらしいジャズシーンはあるのでしょうか?
スタンダードなジャズは世界共通なので、特にウラジオストクらしいというのはないんですが、自分たちなりのアレンジを加え、頭角を現しているバンドは出てきています。たとえば、Vladovski Electric BandやCrystal Jazz Band。彼らはウラジオストクの国際ジャズフェスティバルに毎年出演するほどの実力ですし、いつか日本や韓国に連れて行って、演奏させたいくらいです。
―店を始めた経緯を教えていただけますか?
バーを始める前は、レコード屋を経営していました。毎週金曜と土曜の夜、店内を片付けてライブをやっていたんです。そこで無料でお客さんにお酒をふるまっていました。
それが人気になって、週末と言わず、毎日やってほしいとお客さんたちに言われたんです。ただ当時、演奏と酒を飲んで騒ぐお客さんの騒音がひどくて、近所から苦情がありました。まあ当然の話です。そんな矢先、グム百貨店のオーナーが私のレコード屋に来て、「グム裏で大きなバーをやらないか?」と言われました。それが2015年のことです。でも、最初はロックやパンク、ダンスミュージックのバーでした。
―なぜジャズに切り替えたのですか?
ロックやパンクを聴きに来るお客さんは、興奮して暴れたり、店の機材を壊したりで、経営上まったくいい面がありませんでした(笑)。お客さんはたくさん来てくれるのだけど、営業的にはイマイチだったんです。
そこで、ジャズをたまたまやったら、チケットは売れるは、お客さんは静かに聴いてくれるはで、経営的に良かったんです。そういう経緯から、2017年に店を移した際は、ジャズ一本でやっていこうと決めました。
―ところで、スタニスラフさんの生まれは何年ですか?
1973年です。ソ連時代です。
―小さい頃から音楽好きだったのですか?
音楽は好きで、17歳からギターを始めて、ロックバンドもやっていました。
―どういう音楽が好きでしたか?
ロックが中心で、アメリカのRed Hot Chili Peppers、Nirvana、Metallicaなんかが好きでした。いまでも基本的にはロックやパンクが好きです。
―ウラジオストク出身の世界的ロックバンド、ムーミー・トローリは同じ世代ですか?
彼らがウラジオストクで活躍していたのは、私がバンド活動していたときより5年くらい前です。バンドのリーダーであるイリヤ・ラグテンコは私より5歳年上です。
ムーミー・トローリが活躍した時期が、ウラジオストクのロックシーンが最初の波を迎えたときで、私たちは第2世代と言われています。その頃には、ウラジオストクだけで50以上のロックバンドがいました。ちなみに現在では150くらいいます。
― レコード店の経営など、ずっと音楽に関わる仕事をしていたのですか?
レコード屋をやっていたのは2013年~15年で、ウラジオストク駅の近くで店を開いていました。店名はやはり「コントラバンダ」。それ以前は、音楽と直接関わる仕事ではなく、2000年代は10年間くらい、日本商品をロシアに運ぶような貿易をやっていました。
―どんなことをやっていたのですか?
ヤフオクを活用した転売です。まずロシアのYahoo!に自分のサイト「JAPAN LOT.RU」を開設しました。そのサイトを通じて、日本の商品を探し、それがほしいというロシア人たちは私のサイトを訪れ、商品を注文しました。ロシア全土です。2年後、「IN JAPAN」というコンペティターが現われるまでは、ほぼ独占状態でした。
ただ当時、私は日本からの税関手続きを通さずに船でロシアに商品を運んでいました。それは言うまでもなく密輸、つまり違法行為でした。私はドラッグや拳銃などにはいっさい関わっていませんが、かつて密輸をしていたことは公然と認めています。だから、店名は「密輸業者」を意味する「コントラバンダ」なのです。
―驚きました。そんなことを公言して大丈夫ですか? さすが元ロックミュージシャン!?
多くの人に「なんて挑発的な店名をつけたんだ!?」と呆れられますが、私は「自分は元密輸業者だったんだ」と答えることにしているんです。いまではみんな、私の堂々とした姿を見て笑っていますけどね。しかも、貿易をやる前は税務署の調査員をやっていたんです。税を取り調べる側から逃れる側へ、まったく逆の立場になってしまったんです(笑)。
―日本からどういう商品を運んでいたのですか?
最初はオートバイや車の部品が中心でした。その後、CDの普及にともない、日本の家庭から追いやられたレコードプレーヤーを扱うようになりました。日本のレコードプレーヤーは性能が良く、私は1979年の日本製をいまでも持っています。ロシアでの需要も増え、日本から大量に運びました。そうすると、自然にレコードへの要望も高くなり、最後にはレコードそのものも日本から運ぶようになったのです。
―ウラジオストクでは日本から入ったレコードがそんなに多いのですか?
アジアではシンガポール、台湾でもレコードは家庭にありましたが、圧倒的にレコード文化が発展していたのは当時の日本でした。そのため、私が事業を始めるずっと前、つまりソ連時代からレコードとレコードプレーヤーは人気商品として日本からナホトカ経由でロシアに入っていました。
ソ連時代のウラジオストクは軍事閉鎖都市で外国船が入港することができなかったからです。ウラジオストクでは船で仕事するロシア人男性が多かったのですが、そんな海の男たちが日本に寄港して、レコードなどをこっそり仕入れて、ロシアに運んで売っていたのです。これも厳密にいえば違法行為でした。
―スタニスラフさんも日本のレコードを聴いて育ったのですね。
はい。子供の頃は、カセットテープを学校に持っていくと、レコードからカセットテープに録音してくれました。そのカセットテープをよく家で聴いていました。
―あなたは村上春樹が好きだと聞きました。
私は村上春樹の大ファンで、自分の人生に大きな影響を与えています。10代の頃、ウラジオストクで手に入る日本の文化的な情報のひとつが村上春樹でした。私は貪るように彼の作品を読みました。
ご存知かと思いますが、村上春樹の作品にはバーの話がたくさん出てきます。作家になる前、彼はバーを経営していたからです。彼の作品には、バーで起こるさまざまなトラブルやエピソードが描写されていますが、私もバー経営者なので、気持ちがわかるんです。
そして彼の作品にはレコードも頻繁に出てきて、そのリストを参考に、私もレコード集めをしたものです。しかも、最近知ったのですが、彼はマラソンレースに何度も参加しているそうですね、これも私の趣味と一緒でした。私はウラジオストク国際マラソンにも毎回参加するほど、走ることが好きなんです。
振り返ってみると、村上春樹が送った人生を30年遅れて、私が後追いするような、そんな感じがしてくるんです。村上春樹の作品が好きという以上に、人生としての縁を感じています。
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