「私はプリモールスキー人」と語る民芸店「ルナ・イ・コシュカ」のヤンさん

ルナ・イ・コシュカの店内
ウラジオストク便り

ウラジオストクでは、すでに各家庭のセントラルヒーティングによる暖房が始まっていて、冬の訪れを日々実感しているそうです。

本ニュースサイトでは、ウラジオストクに暮らす個性豊かで魅力的な人物たちへのインタビューを始めています。音楽家や画家などの芸術家から、カフェのバリスタ、美容院のオーナー、民芸店の主人など、多彩な職種の人たちです。彼らの人生と語られる言葉から極東ロシアのいまが見えてきます。

最初のひとりは、沿海地方にまつわる歴史や自然に関する書籍や雑貨、地元アーティストの作品などを扱う民芸店「ルナ・イ・コシュカ(Луна и кошка)」のオーナーのヤン・コリャジンスキーさん(Ян Колядзинский)です。

ヤン・コリャジンスキーさん
ヤン・コリャジンスキーさんはラトビア生まれ

ヤンさんは沿海地方に生息する動物や植物の生態に関するスペシャリストです。彼が店を始めるに至った経緯やウラジオストクの魅力について話を聞きました。

―店ではどのようなものを扱われているのですか?

沿海地方の歴史や文化、環境に関する書物を中心とした本のコーナーと、おみやげのコーナーがあります。地元アーティストによるハンドメイド作品や彫刻、工芸品のようなものです。

ルナ・イ・コシュカの店内写真1
ルナ・イ・コシュカの店内。棚から床までハンドメイド作品が並ぶ
ルナ・イ・コシュカの店内写真2
「沿海地方(プロモールスキー)の自然や文化を描いた絵画もある」

店の裏に中庭があり、そちらでは沿海地方にまつわる講義をしたり、少数民族ウデゲやナナイのワークショップを開いたりもします。

ヤンさんの中庭写真1
造園家でもあるヤンさんは中庭も自分で作る
ヤンさんの中庭写真2

ウデゲ料理をここで調理するというワークショップを行ったこともありますよ。中庭にはウデゲの住居を象ったオブジェやヒョウなど動物の彫刻を置いたり、絵を描いたりしています。

12世紀にこの地を支配した金王朝の将軍を象っている
12世紀にこの地を支配した金王朝の将軍を象っている

―ご家族で運営されているのですか?

はい。私にはふたりの娘とひとりの息子がいるのですが、長女イラ(Илла)と妻と私の3人で回しています。店内や中庭もほとんど私や家族の手作りですよ。

店外写真1
店外写真2

―ご自身の略歴を教えてください。

私はバルト三国のひとつ、ラトビアで1961年に生まれました。父はラトビア人、母はロシア人。そして祖母はドイツ人です。

学生時代はコーカサス地方のラストフナドヌー(Растов На Дону)という都市で過ごしました。大学では植物学や環境学を専攻し、その頃ベラルーシ生まれの妻と知り合いました。

※ラストフナドヌーはロシア南部に位置するウクライナに近い都市で、2018年FIFAワールドカップサッカー大会で、日本代表の決勝トーナメント1回戦のベルギー戦が行われています。

―どういう経緯でウラジオストクに移り住むことになったのですか? 

1985年、出張でウラジオストクに来ました。そのとき、「ここは私の故郷だ」と強く感じたのです。タイガの森に囲まれた植物環境、海に面した土地、すべてが私を魅了しました。この地で職を得たいと思いました。

当時のウラジオストクは軍事的な理由で閉鎖都市だったので、外地の人間は7日間しか滞在が許されず、そのわずかな期間内に仕事を探す必要があったのですが、幸いなことに、植物学を教える単科大学に勤めることができました。それが私のウラジオストク生活の始まりです。その後、ソ連科学アカデミー植物園(現植物園)に移りました。

―植物園ではどんなお仕事をされたのですか?

主に新種の菊の育成、実験です。当時は自分たちでビニールハウス作りからボイラー焚きまでやるような環境でした。ある種の植物を遠隔地から持込み、移植するような研究も行っていました。私は学生時代に極東から遠く離れたコーカサス地方にいたので、極東ロシアに生育する植物を人工的に遠隔地に移植することに関心を持っていました。

植物園勤務の後、パン工場に勤めたり、建築現場の溶接工や現場監督をしたりといろんな仕事を経験しました。その間にも沿海地方の自然を自分なりに研究していましたが、あるとき、沿海地方に生息するヒョウの動物学的価値を知ることになりました。

とても貴重な種なので、保護しなければいけないと考え、2012年に「沿海地方のヒョウ保護基金」を設立しました。地域の人々にヒョウの希少性はもちろん、沿海地方の自然を啓蒙するような活動を始めました。ところが、ウラジオストクの人たちの多くは、自分の住む地域の自然や歴史をよく知らないことに気づきました。妻と相談し、この地方の歴史も併せて伝える活動にしようと話しました。

そして、妻と一緒にアルセーニエフ博物館で学芸員として2年間勤務し、経験を積みました。同館では沿海地方の自然をテーマにした写真展やイベントを開催しました。極東ロシアの自然を撮り続けている日本人写真家の福田俊司さんに参加してもらったこともあります。こうして2014年に「ルナイグロシ(現ルナ・イ・コシュカ)」をオープンしたのです。

※福田俊司(ネイチャーフォトグラファー)さんについてはこちら

―人々がウラジオストクや沿海地方の自然、歴史について知らない原因は何でしょう?

ウラジオストクは1860年にロシアの1都市として設立され、まだ160年の歴史しかありません。そのわずか160年の間に大きなふたつの戦争がありました。ロシア革命と第2次世界大戦です。その間にウクライナやポーランド、ドイツ、日本などから多くの人たちがこの地にやって来ましたが、その後、出ていきました。ロシア国内を含めて人の流出入が激しく、郷土意識が芽生えなかったこと。それがこの町の人々がウラジオストクの歴史や風習に無関心であった理由ではないかと思います。

―沿海地方ではロシア人は、先住民族、満州人などの後から来た最も新しい住人といえますが、これについてはどのようにお考えですか?

この地に住むロシア人は「プリモールスキー人(沿海地方人)」であるというのが私の見立てです。この地域は海を挟んで日本、陸では中国、朝鮮などのアジアの国々に囲まれており、さらにこの地の住人はウクライナをはじめ、さまざまな土地から来た人たちです。そのため半分はアジア的、半分はロシア的な面を持ち、ミックスしている。それゆえ、プリモールスキー人というべきなのだと思います。

―この先、若いロシア人もプリモールスキー人という意識でウラジオストクに残っていくでしょうか?

若い世代はわかりません。日本、中国、ベトナム、タイなどに旅行したり、アメリカに留学したりと、どんどん外に出ていきます。ロシア国内ではヨーロッパ側がいいとモスクワに行く人もいます。若い頃に我々が遠いコーカサスからウラジオストクに来たのと同じように、若者はどんどん外に出ていくのは自然なことだと思います。

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